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forever 饭田舞_《冰雪奇缘》For the first time in forever(re

2015年4月12日  阅读: 529

《冰雪奇缘》For the first time in forever(reprise)(英文)


稍后补充视频简介

视频点评:

水晶蝶梦69397481:好棒啊

IOS_BibYzuF2:对对//@幽香别姬:对不起,是艾尔莎为了保护她啊!

铁十字72871330:求字幕

樱桃瓜:默默的感觉好心疼艾莎

el莎:好听

自信女孩26164329:爱莎的衣服好好看啊!

Mustaqila://@hhhsjis:不好看

Mustaqila:Really.     //@吴世晗502://@中二Mina酱:喜欢喜欢喜欢!!!

伱是美女我是狼:你们不用为了艾莎去骂安娜,虽然我也喜欢艾莎,但是安娜是为了找回姐姐,才劝她回去的,艾莎也有错,她不至于为了保护阿伦戴尔而大动法力

吴世晗502://@中二Mina酱:喜欢喜欢喜欢!!!


精彩内容:

2003年,22歲的日本攝影師古賀絵里子(ErikoKoga)在淺草偶然認識了一對經營喫茶店的老夫妻。之後的六年裡,她時常去探望這對相依為命的老人,並用相機記錄下了他們最後的時光



In 2003, when Eriko Koga was 22, she met anold couple at the Asakusa Sanja Festival and spent the following 6 yearsdocumenting their lives together, creating a testament to their very existence.


2003年、浅草の三社祭で出会った老夫婦。二人が暮らす下町の長屋へ通い、その日常を写真で綴った六年間。時が止まったような空間を訪れるたび、言葉にできない、でも大切な何かがはっきりとそこにあるのを感じた。日々の営みに生死の一切があると同時に、綿々と繋がってきたすべてが私たちを生かし、行く方向を与えてくれている。二度とない瞬間をともにし、私を受け入れて下さった善さんはなさんへ、心より感謝いたします。

写真以上の言葉を私は持ちません。誰もが観ることを通じて、見えない何かを感じて頂ければ幸せに思います。

2008年『浅草善哉』個展のあとがきより


In 2003, I have met an old couple at the‘Sanjya Festival’ in Asakusa. For six years, I have visited their row house andtook photos of their ordinary life. Every time I faced the space, I felt theexistence of something important which I couldn’t explain in words. There, itwas as if the time had separated itself from the present. I felt that I mustsomehow give it a concrete image which if not, will be lost and forgottenforever. Thereafter, I devoted myself to take photographs of them.

Everything that related to life and death,which all exists in our ordinary life, continuously inherent in it which givesa life and courses to every one of us. I thank Hana and Zen for accepting meand spending the irreplaceable time together.

I have no other words than the language ofthe photograph. I would be happy if people would feel something important whichis invisible by these photographs.

From the postscript of photo exhibition“Hana and Zen” in 2008


浅草善哉 Asakusa Zenzai | 20032008

平田はなHana Hirata

明治四十五年 (1912)

四月三日、埼玉県川口町にて平田喜三郎、まんの間に生まれる。九人兄弟の末子。うち三人幼くして病死。姉にやそ(二十歳年上)、あさ、つま、つやがいた。兄の名は思いだせない。父は小さな建具屋を営んでいた。

大正七年 (1918)

六歳

四月、シバ尋常小学校入学。勉強がとても好きで、学校に一生懸命走って通った。成績は全甲。体操だけ乙。昼は家へ食べに帰った。貧乏人は誰も相手にしなかった。だから友達はいなかった。小学五年生のとき両親を亡くす。

大正十四年 (1925)

十三歳

三月、同小学校卒業。番傘と下駄を持って家をとびだす。子守りとなって方々歩いた。桂庵(職業安定所)で仕事を紹介してもらっては川口を転々と移り住む。

昭和十一年 (1936)

二十四歳

知り合いの紹介で、浅草に職が見つかる。荒井屋(天麩羅屋)の子守りとなって子供七人の面倒をみる。新潟県神原郡から腕っこきのいい若い衆が二十人働きに来ていた。男達が休みの晩には吉原へ、女郎買いに行くのを見ていた。夏は天麩羅、冬は鍋、一日千円も売る威勢のいい店で、ナショナルの金銭登録機があった。皆からネエさんと呼ばれ親しまれた。方々歩いたけれど、ああこんないい所はないと浅草の空気に溶けこんでゆく。日の暮れ、銭湯あがりの大旦那は、はなさんの届けたふんどしとハイカラなスーツに着替え、銀座のダンスホールへ。それから吉原の待合に行き、薩摩琵琶を弾いては芸者をあげ踊り唄う、とにかく気前のいい粋な男だった。銭湯五銭、支那そば六銭、板草履三十銭の頃、小遣い月三円もらった。

昭和一五年 (1940)

二十八歳

東京でも戦時色が増し、荒井屋は商売をやめ、かわりに落下傘(パラシュート)を生産する軍需工場となる。はなさんは職を失い、川口の兄弟のもとへ帰る。たまに米を背負っては、荒井屋の家族へ持って行った。戦時中は働かず田舎で過ごしたため、貧しくはあったが戦争という感じはあまりしなかった。

昭和二十年 (1945)

三十三歳

八月、広島?長崎に原子爆弾投下。同月、ポツダム宣言受諾、終戦。久しぶりの浅草は、東京大空襲でコンクリートの建物以外何も残っていなかった。崩れた浅草寺まえには、ムシロを敷いた物乞いや浮浪者がたくさんいた。元荒井屋の軍需工場も焼けたが、近くにフジキッチンとして新しく洋食屋を開いた。川口から浅草に出てきては、店でレジや皿洗いなどの裏方を手伝った。

昭和二十一年 (1946)

三十四歳

この頃、フジキッチンで働くようになった善さんと知り合う。闇で仕入れた砂糖や珈琲豆を飲食店に売り歩き、生活の足しにした。白砂糖?一貫目三千円、珈琲豆?一斗缶三千五百円。夜は戸板の上に蒲団を敷き、男たち十人と雑魚寝。月給はもらえなかったが、ごはんは食べられた。食べられるだけありがたかった。砂糖は高価なため、代わりにサッカリン(食品添加物)でシロップなどの甘みをつくった。店の息子が売上を持って銀座のダンスホールに遊びに行くので、かつての大旦那はお金を持っていなかった。

昭和三十年 (1955)

四十三歳

十二月。はなさん、喫茶店「あゆみ」をはじめる。資本金三十五万円。西浅草二丁目、四戸が住む新築長屋の一階で開業。誓願寺地所の焼跡地に建つ。一歩一歩あるけるように善さんが命名した。同月二十四日、「あんたブラブラしてないで、できるならここでやってよ」と善さんを誘い一緒に働くようになった。その夜はトンガリ帽子をかぶって、苺のショートケーキ(五寸五百円)を持った酔っ払いが店の前をたくさん通った。はなさんは珈琲が好きで、喫茶店をやれば毎日飲めると思った。コーヒーカップや調理器具はすべてビール会社のお馴染みさんが持って来てくれた。商人向け旅館、生バンドのいるキャバレー日輪、インチキ飲み屋、売れない芸人を集めた五一郎アパート、とんかつ屋、おかまバー、居酒屋、鮨屋などが建ち並ぶにぎやかな界隈だった。珈琲一杯三十円。店の奥が六畳の寝床、冷暖房なし。はじめの二年間休みなしで働いた。


中村善郎Yoshiro Nakamura

大正十年 (1921)

十一月二十八日、愛知県中島郡一ノ宮北宮山にて、中村幹三、つるへの間に生まれる。姉?ゆきえ、善郎、トシエの三兄弟。父は織物屋をやっていた。

大正十二年 (1923)

二歳

九月の関東大震災後、一家は親戚の紹介で浅草千束町に移り住む。言問通りに面した一角で、父?幹三は荒井屋バーを開く。ごはん丼一杯五銭、肉鍋十銭、二級酒八銭。一日五十銭で生活する人がよく来た。言問通りの向こう側が吉原遊郭だったため、音のしないフェルト草履屋、日本髪を結うためのかもじ屋、洗い?張り?仕立ての着物屋が長屋に並んでいた。

昭和二年 (1927)

六歳

浅草区金竜尋常小学校入学。忙しい両親に代わって、姉が入学式について来た。全校生徒千八百人、男女別で一組六十人。この頃浅草は大変な人口で、栄養が足りない子は頭にガビ(十円はげ)ができて、鼻を垂らしていた。勉強は乙だったが、体操?珠算は甲で学年トップのいたずら坊主。お昼はアルミ弁当箱に、自分で踏んづけるほど飯を詰めてきたのを食べた。

昭和九年 (1934)

十三歳

今戸高等尋常小学校入学。二年制で小僧や女中に行くような子が通った。バスケットボール、野球、運動は何でもやった。珠算三級を持っていれば東京商工会議所で雇ってもらえたから、みな必死になって珠算塾に通った。

昭和十一年 (1936)

一五歳

三月卒業。親戚筋の紹介で下谷区荒井屋総本店(酒屋)へ、住み込みの小僧に出た。朝六時起床、夜十一時店じまい。八畳二間に小僧さん十人が寝起きしていた。掃除、片付け、小間使い、配達などをして一日中駆けまわっていた。小遣い月三円の月一回休み。休みの日は兄貴分に連れられ、後楽園球場、明治座、新橋の演舞場、二流映画館の東京館にもよく行った。係りのおじさんが裏からこっそり入れてくれる時もあり、夕方まで四本見続けた。男女別席と夫婦や恋人のためのダブル席があった。

昭和一六年 (1941)

二十歳

現役兵隊として召集され、荒井屋総本店をやめる。やめたとき、大旦那が六百円の小遣いをくれた。長屋が一軒買えるくらいの大金で、父?幹三はびっくりして喜んで、死んでもこの大金を離さないと東京大空襲のときお腹に縛りつけて逃げまわった。昭和六年満州事変、七年上海事変、十二年日中戦争が勃発し、戦争の空気が高まっていた。一六年十二月八日、真珠湾攻撃、太平洋戦争開戦。

昭和十七年 (1942)

二十一歳

第乙上で検査に合格。現役兵として、中国出兵が決定する。本籍が名古屋だったため、激戦区の中国牡丹江へは行かずにすんだ。東京の同級生は皆そこに送られ半年で戦死した。赴任地によって生死がほぼ決定したため、軍隊は「運隊」と呼ばれていた。父親が東京駅に見送りに来た。名古屋から広島の宇品港へ、そこから船で中国広東省三水県へ。

昭和十八年 (1943)

二十二歳

所属していた分隊は悪さをしなかったため土地の人と交流が持てた。中国の女お巡りさんに味噌??古い毛布などをあげたり、土地の女の子にお金や塩を渡し、水汲みや風呂焚きをやってもらったりした。善さんは煮炊き当番になると、おこげをわざと一杯こしらえて女の子に持たせ喜ばせた。溶かし砂糖でおこげを絡めると、おこしになり市場で売れた。水が悪いのでコレラや赤痢がはやり、死んだ仲間三人を おんぼう焼き(火葬)にした。 十月、陸軍兵長となる。電気の通った、弾の飛んでこない四畳半ひとり部屋が与えられ、おおいばりだった。募集で集まった中国、韓国女性十人ほどがトラックに乗って小隊にやって来た。女性には軍票で支払い、それを交換所に持って行くと十倍の現金になった。多くは家族へ仕送りしているようだった。

昭和二十年 (1945)

二十四歳

八月、陸軍伍長となる。同月、戦争終結を知る。


昭和二十一年 (1946)

二十五歳

巡査部長になった女お巡りさんが、煙草二箱を持って港まで見送りに来てくれた。四月終わり、晴れて敗戦の地を踏む。暑い日で、氷一杯の注文に五十円と言われ跳ねあがった。戦前は五銭で約千倍の値上がり、両親を喜ばせようと貯めた五百円が氷十杯分の経済になっていた。名古屋?恵比寿?渋谷の知り合いを転々としながら、浅草の洋食屋、フジキッチンにズルズルと入りこみ手伝うようになる。

昭和二十二年 (1947)

二十六歳

戦後経済に活気が出てくると、店はお客がひっきりなしで、売れてすごかった。二階が洋食、一階が喫茶店。A定食三百円、ポタージュ?とんかつ?ご飯?珈琲付き。ラジオWVTRからアメリカ音楽が流れていた。お給料はもらえないので、進駐軍に勤める友達の顔ききで横流し品をうまく手に入れ闇市で稼いだり、小間使いをしたりして生活していた。この頃はなさんと出会い、戦前にふたりが荒井屋の分家で奉公していたことを知る。

昭和二十四年 (1949)

二十八歳

お客だった絵の先生に連れられて、吉原や玉の井、鳩の街(私娼窟)へ遊びに行った。チョンの間、割り部屋、本部屋などに分かれ値段が違った。先生は何もしなかったが、善さんと二人で五百円払ってくれた。先生の部屋には家のない女が六人も転がり込んで来て、裸で酒を飲んで酔っぱらっていた。

昭和二十八年 (1953)

三十二歳

フジキッチン一階に置かれた白黒一六インチテレビに表まで人だかり。テレビを見るため、土間へ新聞紙を敷いて珈琲を飲む人もいた。


中村はな  中村善郎

Hana Nakamura & Yoshiro Nakamura

昭和三十二年 (1957)

はな四十五歳?善郎三十六歳

入籍。はなさん、結婚するなんて思っていなかった。中村はなになる。


昭和三十五年 (1960)

はな四十八歳?善郎三十九歳

二階が空いたので住居にし、三十八万円で店を広くした。お客はお馴染みさんでいい人ばかり。待合のおかみさん、ご近所さん、女郎屋のおやじさん、風呂屋の常連さん、吉原勤めのねえさん、鎌鮨のおばあさん、旅館の旦那や女中さん。一日何十杯もサイフォン珈琲が売れた。紙くず問屋や仲見世の遊べる旦那におごられて、伊東や小田原の競輪、石内や越後湯沢のスキーなど毎年旅行させてもらった。

昭和三十七年 (1962)

はな五十歳?善郎四十一歳

夜十一時に店を閉めると、善さんは浅草、池之端、銀座のキャバレー、向島の待合で旦那のお供をして過ごした。芸者に手出しはせず、旦那の命を守ってバカ銭を使わせないように心得ていたので、義経の弁慶、腰巾着として可愛がられた。芸者が土産の鮨にトロだのイクラがいいとがんばっても、旦那と同じ海苔巻やお稲荷さんにしなさいという。旦那は喉に鮨を詰まらせて、三十九歳で死んだ。待合のおかみさんは、はなさんに上等の下駄やら草履をくれた。

昭和四十年 (1965)

はな五十三歳?善郎四十四歳

となりのトルコ風呂から、珈琲とホットドックの出前がよくあった。せまい階段を上がると、働いている女が裸でウロウロしていた。善さん得をする。たまに、はなさんを自転車の後にのせ吉原へ女郎を買いに行った。女郎屋の一階でおかみさんとはなさんは話をしていて、三十分ほどで終わると同じようにして一緒に家へ帰った。勘定は、はなさんが払った。土日になると競馬をやるお客さんが来ては頼まれて、近所の場外馬券場へつかいに行った。賭け事好きのはなさん、自分でも買った。

昭和四十二年 (1967)

はな五十五歳?善郎四十六歳

善さんの両親が二階に越して来る。二階の小さなガスコンロで父親が煮炊きした。にんじんご飯がうまかった。戦争を共にわたったアルミ鍋は片手が欠けていた。母は何もしないが、裁縫だけは器用にやれた。

昭和四十六年 (1971)

はな五十九歳?善郎五十歳

?幹三死亡。お通夜に百十人が集まった。享年九十歳。


昭和五十四年 (1979)

はな六十七歳?善郎五十八歳

?つるへ死亡、享年八十三歳。葬式はすべてはなさんが執りおこなった。

昭和六十年 (1985)

はな七十三歳?善郎六十四歳

毎日同じ。はなさんは椅子に座ってお客さんのおもてなし、暇があれば日に何杯も珈琲を飲んでいた。善さんはサイフォン珈琲をいれ、タマゴサンドをつくる。一貫目の氷塊を砕いてシェーカー器でつくるジンフィズは夕方からよくでた。壁には俳優のジョン?ウェインやホールデンなどの絵が掛かっていた。映画館の看板描きの客が持ってきてくれた。

平成十年 (1998)

はな八十六歳?善郎七十七歳

五月一五日、浅草三社祭。八幡神社から祭囃子が聞こえてくる初日の朝。祭で張りきったはなさん、階段で足をくじく。それが原因となり体調を崩す。善さん一人ではやっていけないため、この月で「あゆみ」を閉店した。珈琲一杯二百円だった。

平成十六年 (2004)

はな九十二歳?善郎八十三歳

はなさん。寝るとき以外は一階で、外を眺めて暮らしている。いろんな人が通るし、ラジオをつけているので淋しくない。雨の日はラジオを消して雨音を聞いている。昼過ぎに起き、善さんが用意したごはんを食べる。自分では何もしない。煙草、hi-liteを一日三箱は吸う。トイレと煙草の吸殻を捨てに立つ以外は、同じ場所に座って外を見ている。夜十時頃まで雨戸が閉まってもそのまま、ひとりでラジオを聞いている。毎週金曜は在宅サービスの送迎で半日留守。氷屋さんが、五十年前の木製冷蔵庫へ一貫目の氷を毎日足しに来てくれる。お金はとらない。同じ椅子のうえ、おんなじ毎日。

善さん。午前中に起き、一階の鍵を開け「あゆみ」の白い調理服を着てごはんをつくる。はなさんに食べさせ、固くなった食パンをポッポー()へやってから、二階で横になる。座っていると帯状疱疹でつらい。からだの按配がいい日は、家の掃除をしてから自転車に乗って近所の蛇骨湯、コインランドリー、スーパーへ買い物に行く。そんな日は温燗をつけ、何杯も呑むと幸せそうにかぱかぱ戦争の話をする。はなさんは煙突みたいに煙を吐きながら黙って聞いている。毎月一日、一五日は八幡神社と浅草寺へ欠かさず参拝に行く。夜七時頃、表の鍵を閉めパン屑をおネズミさんへ散らして二階へ上がる。馴染みのご近所さんはお裾分けをよくしてくれる。気が楽でいられる浅草は住みやすい。

平成十九年 (2007)

はな九十五歳?善郎八十六歳

善さん、はなさんに薬を塗ってもらっても、なかなか帯状疱疹がなおらない。背中が痛くて起きられない日は、二階で毛布にくるまりラジオを流し寝ている。中華屋さんがお裾分けしてくれる丼一杯の白ごはんも、もらいに行かなくなった。医者の厄介にはなんねえと、パック酒をごはん代わりに呑みながらポッポーにぶどうパンをまく。散らかった部屋、落語家のように昔ばなしをする元気はない。

はなさん、いつもと同じ椅子のうえ。雨戸の閉まった窓の方を向いて一日を過ごす。在宅サービスのお風呂は断ってしまった。六月、スーパーへ初めておつかいに出たはなさん。何も買えずに帰って来たので善さんに叱られる。握りしめた小銭をカウンターにおき、ゼーゼーと大きく肩で呼吸をしていた。

長屋を訪れては木製冷蔵庫に食料を詰め、握手して別れる日々がかさなって行った。外へ一歩出ると、ふたりの存在は陽炎のように思えたけれど、小さくひんやりとした手の感触は下町のにぎわいの中でいつまでも消えなかった。

大晦日、暖房のない部屋をやかんから上る蒸気がほのかに温めている。正月用に届けたおせちを、黙々と口に運ぶはなさん。そんなに慌てんなよと、白い煙を吐く生気のない善さん。久しぶりに並んだその光景が、長屋でおさめた最後のふたりだった。

平成二十年 (2008)

はな九十六歳?善郎八十七歳

一月。夜中、トイレへ立ったはなさん、階段から転落。下から助けを呼ぶ声がやんだとき、寝たきりの善さんは、ああ、死んだなと思った。そのまま自分も死ぬ覚悟だったのだろう。北風が強い晩で、扉がバタバタいうのを不用心に思った隣のおばさんが部屋を見に来た。衰弱しきった善さんとはなさん、大急ぎで別々の病院に運ばれる。それからふたりは、浅草へ戻ることも再会することもなかった。

数日後、ふたりのいない部屋を訪れた。おネズミさんがかじった大根、未開封の調味料、カビの生えた餅やさつまいも。かつて自分が持って行ったものを捨て、木製冷蔵庫を空にした。やわらかな冬の光を受け、主を失ったものたちは一様に口をつぐんでいる。時計の針だけが、ただカチカチと強く響いていた。

二月。鍵のかかっていない部屋は、足の踏み場もなく荒れていた。ひっくり返ったひき出し、若い頃の写真は床に散らばり、真っ赤ながま口から小銭がとびでている。ドシドシと土足で歩きまわる暗い影が残っていた。

三月。業者が家財のすべてをトラック三台に運びだす。ガランとした部屋はまるで、役者が去ったあとの劇場のようだった。一羽のポッポーが玄関先に舞いおりて、クルクルとそこに佇んでいた。

浅草通いから病院通いへ。飯田橋の病室、バンソーコだらけのはなさんに善さんの無事を知らせると、目を輝かせうなずいた。隅田川近くの病院、善さん。人形焼を喉につまらせて看護婦さんに叱られる。「この年にもなってあいつと離れて淋しいとかって思わねえけどさ、隣にいるといねえとでは違うよ」と、真っ白な布団にうずもれて笑った。

六月。善さん、墨田区の病院にて死去。享年八十七歳。

バンソーコのとれたはなさん、足立区の老人ホームへ。文句も言わず感謝するので、周りの人たちから気に入られる。大部屋の窓からはビル壁しか見えず、季節がまるでわからなかった。枕元にはおそろいのTシャツ姿のふたりの写真。浅草暮らしと善さんから離れたはなさん、次第に頭がはっきりしなくなった。ひとり、ベッドの上で静かに暮らす。心臓が悪い。

平成二十二年 (2010)

はな九十八歳

八王子の老人ホームへ移る。善さんと昔の記憶だけはしっかり残っている。「おいしい、ああ、おいしい。幸せ」と、吸うようにシュークリーム八個を食べて小さな体をベッドに横たえた。春、肺炎のため入院。

六月。はなさん、都内の病院にて死去。享年九十八歳。

七月。初々しく蝉が鳴きしきる谷中、南禅寺。紫黄白の菊束と一対の線香を手に、ふたりが永代供養されているお墓へたどりつく。灼けるような墓石に水をかけると、透かし彫りのお地蔵さんが気持ち良さそうに浮かびあがった。


略年譜についてAbout history

お二人の経歴は日々の想い出話を元にしてまとめたものです。

経歴はその人の多くを語ることは出来ません。過去が記憶として語られるとき、それはつくられた物語としてであり、経歴も写真もその人の一部分でしかないのです。


コップ酒の気分でふたりの奥の奥にズンズン沈みこんでいくと、浅草の表徴がパラパラと剥がれ、そこは何処だっていいような気がしました。落語を思わせる善さんの口上と表情、はなさんの飄々とした雰囲気。その場が放つ存在感は訪れるたびに畏れの入り混じった悦楽を与えてくれました。


忘れ去られる庶民とその生活、具体の中に隠されている本質的なもの。写真と言葉を通して、潜在的なものを顕在化したいという一心で通い詰めたこの一年。わたしを受け入れてくれ、撮影させてくれたことに対して、お二人にあらためて感謝の意を表したいと思います。


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心之舞动 dance heart forever

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封面

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